桜の花と言えば一般的に「儚い」イメージですが、散り際は確かに儚いけど落ちた後かなり長い間地面に残っているし、なぜここまで「儚い」イメージだけが強いのだろうかとなんとなく違和感を覚えました。そこで、改めて桜と日本人がどのように関わってきたのか歴史の側面から調べて、いつから日本人は桜に「儚さ」を感じるようになったのかを推測してみることにしました。
●有史以前~旧石器時代
・桜に限らず樹皮を切り取り利用する技術はあった可能性が高い
●縄文時代
・日本人と桜の関わりが「事実」として出てくるのはここから
・遺跡から桜の樹皮を利用した道具が出土している
●飛鳥~奈良時代
・唐の影響で、当時の花見は梅の観賞が一般的だった
●平安時代
・桜の花見が広まり出す(国風文化の影響とも)
・当時は貴族が野生品種のヤマザクラなどを愛でていた
・ヤマザクラは個体によって開花時期が違うため今のような短期集中型では無かった
(例:吉野の桜。場所によって開花時期が違うため1ヶ月間見頃が続く)
●鎌倉時代
・オオシマザクラの栽培が始まる
●室町時代
・植木屋の出現
・オオシマザクラから派生した栽培品種が生まれる
●江戸時代
・この頃になってやっと庶民が花見をする余裕が出てきた(飛鳥山、隅田川など)
・江戸末期に染井吉野
※1 が広まり出す
※1 染井吉野について
・江戸末期に染井村(現在の駒込)から「吉野桜」として広まった
・明治時代にヤマザクラと別種ということが判明し「染井吉野」と改名
・母親はエドヒガン、父親はオオシマザクラということまでは判明している
・江戸時代に人工交配が行われていた可能性は低く、偶発実生からの選抜の可能性が高い
●明治時代
・幕府、武士の消滅により武家庭園の消滅
・篤志家の努力により桜は保存された
・ヤマザクラを美しいと感じる心に関して唄った本居宣長の「敷島の歌」が
「武士道」と結びつけて曲解され始めた。この頃には既に「儚く散る」イメージが浸透していた
●戦後
・戦中、上記の「敷島の歌」が愛国心の鼓舞するプロパガンダとして利用され始めた
・第二次世界大戦後、扱いやすさから染井吉野が爆発的に植樹されるようになった
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●推論
・江戸時代以前の桜に関する学術的な証拠・記録はほとんど残されていない
・国風文化から推測すれば、本来、日本人にとって桜は女性的なもの、美しいもの、という感覚
・桜と儚さ(死)が結びついたのは明治以降の「武士道」の影響が強いのでは無いか
・戦中、プロパガンダとして利用されたこともその印象を強めた
・以下、個人的感想(読む価値の無い散文)
幕末、文明開化、戦争という歴史上において「日本」のアイデンティティが強く求められた時期にちょうど染井吉野が普及したことと関係があるように思えました。染井吉野に纏わる起源の話で「色々な意味で恥ずかしい人たち(双方ともに)」がよく話題にしているものがありますが、日本古来のヤマザクラではなく染井吉野が題材になっている理由が何となく見えてくるような…
ともあれ、改めて世にはびこる「○○らしさ」を信じ込む思考停止の恐ろしさ、危うさについて考えさせられました。そして歴史を知れば知るほど、日本というのは本当に複雑で面白い国だと実感させられます。
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●参考文献
日本財団図書館(電子図書館) 自然と文化 71号
https://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2002/00708/contents/026.htm
桜の観賞と栽培の歴史 : 野生種から栽培品種への道
(<特集>美しい日本の桜を未来に伝える-系統保全の現状と新展開-)
http://ci.nii.ac.jp/naid/110009823853
桜の野生種から栽培品種への道 -総論と歴史-
https://www.ffpri.affrc.go.jp/tmk/event/documents/2013021601.pdf
独立行政法人森林総合研究所 多摩森林科学園
https://www.ffpri.affrc.go.jp/tmk/visit/documents/someiyoshino.pdf
森林総合研究所 多摩森林科学園/お問い合わせ
https://www.ffpri.affrc.go.jp/tmk/info/faq.html
「敷島の歌」その後 - 本居宣長記念館
http://www.norinagakinenkan.com/norinaga/kaisetsu/shikishima_sonogo.html